【短編】青春の終わり(※野球とは無関係です)

 ユージは彼がまだ二十歳だったころを思い出していた。太平洋を臨む千葉の港町の匂いが、そうさせた。
彼はテレビの制作会社で働いていた。大学を卒業してから転職を繰り返し、いまの仕事は既に三回目の転職だった。二十七歳。まあ、若いと言えば若い。でも付き合っている恋人は、最近どうも本気で結婚を考えているような気がした。高校や大学の同級生たちの何人かは、もう結婚して子供もいた。ふと学生のころを思い出すと、少しセンチメンタルになる。それは彼が精神的には、もういい歳なのだという証拠かもしれない。少なくとも、青春とは言えない歳なのかもしれない。
「海の匂いがすると、むかしを思い出すんです」ユージは昼食で訪れた定食屋で職場の先輩に言った。窓から海が見えた。
「むかしって?」先輩が言う。
「まあ、高校とか大学のはじめのころですかね」
「へえ、そう」先輩は何を食べようかとメニューを見ている。「でも、お前の出身って東京だろ?」
「まあ、そうですけど」とユージ。「父親の実家が千葉県の太平洋側だったんで、大学のときくらいまではよく来てたんです」

  ✳ ✳ ✳

 ゴキブリから得られる教訓があるとすれば、彼らは後ずさりをしないということだけだ。それはユージが小さいころに父が教えてくれたことだった。「ゴキブリが怖いなら、ゴキブリの後ろに回れ。ゴキブリは後ろにさがらない」そういうと父は少し寂しそうな目を彼に向けた。
 ユージはゴキブリが怖かった。だから夏に父の実家に帰省するのが嫌だった。大量にゴキブリがいるからだ。父の実家のいたるところにゴキブリは隠れていた。風呂場にも襖の裏にも、夢のなかにさえ。ユージはゴキブリを見るたびに悲鳴をあげた。そして悲鳴をあげるたびに、自分が情けなくなった。
 ユージが幼いときは、まだマシだった。母なり祖父母なりが心配したり、彼の反応を面白がってくれたからだ。しかし大学生にもなると、誰もユージの悲鳴に構わなくなった。みんな呆れてしまったのだ。それが余計にユージを情けなくさせた。
 自分が情けなくなるとユージはよく海へ行った。父の実家から歩いて数分のところに海はあった。夜になると波の音が聞こえてくるほどに距離だ。
 ユージは海に来るとサーファーを見ながら音楽を聴いた。それからビールを一、二本あけ、普段は吸わないタバコを二、三本吸った。水には入らなかった。
 海は偉大だ。ユージは来るたびにそう感じた。
「歴史が証明しているように」ある日、海から戻るとユージは母に言った。「ゴキブリも海と同じく偉大なバイタリーティーの持ち主だ。彼らは、はるか昔から存在している。それも今とほとんど変わらない姿で。そう、ゴキブリは後退もしないし、前進もしない」

 ゴキブリと遭遇したよく晴れた日、ユージが海の見えるベンチで音楽を聴いていると、ウェットスーツを着た同い年くらいの女の子が隣に座った。彼女はガムを噛んでいた。
「どうも」その女のこが言った。「ガムいる?」
「いらない」
「なに聴いてるの?」と女の子。
「音楽」とユージ。
 その女の子が笑った。釘付けになる笑顔だ。「釘付けになる笑顔」だって……。なんて陳腐な表現なんだ。クソ。
「あなた昨日もここにいたね」その女の子は海水で固まった髪の毛をほぐしながら言った。彼女からは甘いココナツの匂いがした。彼女の体は、よく焼けていた。
「なんで知ってるの?」とユージ。そう。昨日も彼はゴキブリを見て、悲鳴をあげて、自分が情けなくなって、ここに来たのだ。
「なんでだと思う?」と彼女は聞いたが、ユージが考える間もなく答えを言った。「簡単よ。私もここにいたから」
 そう言うと彼女はまたあの笑顔を見せた。相変わらず良い笑顔だった。
 ユージはビールを一口飲んだ。女の子にまだ立ち去る気配はなかった。「風邪ひくよ」とユージ。「大丈夫」と彼女。
「なに聴いてたの?」女の子は同じ質問をした。
「洋楽」とユージ。
「へえ、あまり洋楽聴いたことない。誰?」
「ポール・マッカートニー」
「レット・イット・ビーね」
「そんなところ」
 聞きたいと彼女が言うので、ユージはイヤホンを渡した。そして『レット・イット・ビー』が終わると、彼女は違う曲も聴きたいと言った。「少し切ない曲がいいな」
 ユージは少し悩んで『ワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』を選んだ。彼がビートルズのなかで二番目に好きな曲だ。
『ワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』を聴いている途中で彼女は何回かユージの方を見てにこりと笑った。そのたびにユージは、なんとなく頷いた。
 彼女が音楽を止めた。そして「わたしとやりたいと思ったでしょ」と訊いた。
「いや」ユージは答える。「申しわけないけど、体の調子が悪いんだ。股間が腫れて張り裂けそうで」
「変な人」女の子は笑った。ユージも笑った。
「明日も来る?」彼女が訊いた。
「来てもいいよ」とユージ。
「来て」彼女は少し強い口調で言った。
 彼女が去ったあと、ユージはビールが空になるまで、そこにいた。そのあいだ何回も『ワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』を聴いた。
 家に戻った直後に夕立が降った。

 次の日、ゴキブリには遭遇しなかったがユージは海へ行った。そして、ほとんど同じ時間に同じベンチに座った。女の子は、まだいなかった。ユージは今日もビールを持ってきていた。今回は彼女のために多めに買った。
 海は青黒く、風は強かった。サーファーの数も多い。彼は、むかし父と一緒にサーフィンをやったことがある。でも、やったのはその一回だけだった。その日、父は海に溺れていた子供を助けようとして死んだ。その子供も死んだ。
 彼女がやってきた。きょうはウェットスーツではなく、どこかのメジャーリーグの球団のTシャツとショートパンツにサンダルという格好だった。彼女もビールを買ってきていた。
「わたしもビール買っちゃった」と彼女。
「いいと思うよ」とユージ。「でも酒と愛は多すぎるほど、あとが怖い」
「なにそれ」彼女は鼻で笑った。そしてユージの隣に座ると「わたし、レミっていうの」と言った。「君は? 名前は?」
「ユージ」
「よろしく」彼女はそう言って、ビール缶のプルタブを開けた。プシュ。それからユージが持っていた缶とぶつけた。「乾杯」と彼女。ユージは笑っただけで、乾杯とは言わなかった。
「ねえ、ユージくん。たぶん君はここの人じゃないでしょ……。きっと東京の人」
「ユージでいいよ。『くん』は付けなくていい。ダサいから」ユージはビールを一口飲んだ。「そう。ここじゃない。東京に住んでる」
「やっぱり。なんな感じがした」レミは納得したように数回頷く。「わたしは、ここに住んでるの。生まれてから今までずっとここ」
 それから二人は自分たちについて話した。でも、ほとんどはレミが話していた。この町に、いかに娯楽がないかだとか、週4日は夕飯が魚だとか、そんな話だ。
 ユージはレミが話しているあいだ適当に相槌を打ちながら海を眺めていた。海から強く吹く風が二人を襲う。湿っぽい潮の匂いがした。浜辺に鳥が群がっている。海鳥かと思ったらカラスだった。砂浜に座る男の子。でも座っているだけで別に何もしていない。彼は何かを見つめているのだろうか。わからない。少し離れたところにいる腕を組んだ女性は、その子供の母親だろうか。わからない。遠くの山でヒグラシが鳴いた。
「でも、わたし、この町が好きよ」レミが言った。ちょうどユージが二本目のビールを飲み終えたところだった。彼女の声は小さかったが、ユージにはちゃんと聞こえた。
「来年から東京へ行くの。あっちの会社で働くの」抑揚のない声だった。何かの感情を抑えているような、そんな声だ。「笑うかもしれないけど、わたし怖いのよ」
「何が?」
「変わらないといけないことが」
「わかるよ」
 二人は自然に抱きあった。特殊な青い感情を確かめるために。
 辺りは暗くなってきていた。砂浜に座っていた男の子はどこかへ行ってしまった。近くにいた女性も消えていた。
「いつまでいるの?」レミが耳元で訊いた。
「あしたまで」とユージ。
「あしたも会える?」
「会えるよ」

 次の日、レミはユージより先にそこにいた。上はウェットスーツで、下はスポーツタイプのビキニだった。彼女の隣にはサーフボードが二枚あった。
「こんにちは」レミが言った。「よく寝れた?」
 ユージは笑って、それからサーフボードを指差した。「サーフィン?」
「そう。教えてあげようと思って。やったことある?」とレミ。
「一回だけ」とユージ「でもサーフィンは見てる方が向いてると思う」
「大丈夫。きょうは波が安定してるからできるよ、きっと」
「やめとくよ。君がやってるのをここから見てる」
「だめ、やるの」
 結局、ユージは折れた。「わかったよ」そう言うと、レミは彼の肩を叩いた。
 焼けた砂は熱く、波の音は近づくと大きく聞こえた。海の水は思ったよりも冷たかった。
 バドリングとテイクオフをレミから教わると、ユージはすぐにそのコツを掴んだ。「良い感じ」とレミが言った。「ありがとう」とユージ。
 沖に出ると、ユージは海に慣れるためにしばらくのあいだサーフボードの上で漂っていた。あたりを見渡してみると、視界のほとんどが海だった。太陽を乱反射する海面。目の前を空と海とに二分する地平線。砂浜はかなり遠くに感じた。
 よさそうな波が来た。ユージは波に沿ってバドリングをした。ボードの上に立とうとした瞬間にバランスを崩す。海水を飲み込んで、咽せた。鼻に水が入った。頭が割れそうだった。クソ。
 ユージはまた波を待った。いい波が来た。テイクオフ、失敗。また波を待つ。テイクオフ、失敗。テイクオフ、失敗。成功する気配はしなかったが、彼は続けた。負けたくなかった。
 一時間くらい経っただろうか。いまだに一回も波に乗れていない。体はかなり消耗していた。もう一回やってダメだったらやめよう。ユージはそう思った。
 波が来た。あっけなく失敗した。
「わかった。もう、やめるよ」力を抜き、海に身を任せた。抵抗しない彼を、海は優しく包んでくれた。
 海辺に上がると少しだけ排気ガスの匂いがした。ユージはベンチに座ってしまうと、もう動く気がしなかった。喉が渇いていたが、何かを飲みたいとは思わなかった。足の裏が痒かったが、それを掻くことすら面倒だった。
 体が震えてきた。別に寒くはない。でも、自分ではどうしようもできない震えが体の中心から込み上げてくる。

「泣いてたよ」誰の声が聞こえた。目を開けるとレミがそこにいた。

  ✳ ✳ ✳

「なんとも言えない話だな」先輩が味噌汁をすすりながら言った。
「まあ、むかしの思い出です」とユージ。
「それで、その女の子となんかあったわけ?」
「いや、あれ以来、会ってないですね……」ユージは窓の外を見た。「そう、先輩っていつ結婚しました?」
「なんだよ、急に」先輩は面倒臭そうな顔をした。「二年前。俺が三十のとき。でもお前、結婚に興味ないんだろ? この前はそう言ってた」
「いや、なんか、そろそろかなって」
「なんで」
「いや、まあ」ユージはまだ海を眺めていた。「いまの話が上手くできたからですかね」

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